前園真聖の若い頃(全盛期)のドリブルは世界トップレベルか?現役時代の動画で検証してみる。


今回は、小倉隆史氏と同年代だった前園真聖氏についてお伝えします。

 

彼の若い頃(全盛期)のドリブルが世界トップレベルだったのかを動画等を見ながら検証していきたいと思います。

 

前園真聖の若い頃(全盛期)について


少年3人がサッカーをしている黒いシルエットのイラスト

まず、前園真聖氏の経歴です。

 

1973年生まれ

鹿児島実業サッカー部OB。

 

小学生の頃からマラドーナに憧れており、ビデオを見てはドリブルの練習に明け暮れていたそうです。小学生では県大会ベスト4まで進んでおり、中学生になってからも期待されていたはずです。

 

しかし、当時の中学生時代は、2年生の三学期になるまでサッカー部がなかった為、それまでは陸上部に所属していたそうです。それでも、サッカー部が創部されてからは県選抜にも選ばれています。

 

高校時代は、鹿児島実業サッカー部として全国大会で準優勝を成し遂げています。ちなみに、2つ下の1年生には城彰二氏がいました。

 

紹介VTRも残っています。

(一部を省略していますので約30秒の動画です)

 

この頃の高校サッカーといえば、九州勢が強く、小嶺忠敏監督が率いる国見高校が優勝を成し遂げています。私が高校1年生の時、関東大会で韮崎高校(当時、中田英寿氏が1年生)と対戦した際に、この国見高校の小嶺氏が我々の試合を観戦しに来ていたので、リアルタイムで本物を見ています(笑)

 

高校サッカーで国見高校が優勝したのをテレビで見ていたわけですから、本物に出会えた時は、かなり興奮したのを今でも覚えています。

 

そして前園真聖氏は、高校卒業後に今は無き「横浜フリューゲルス」に入団。

 

当時、アトランタ五輪では日本代表の中心メンバー(キャプテン)として活躍しています。ある程度の年代であれば、「アトランタの奇跡(ブラジル代表を1-0で下す)が有名ですよね。

 

私も彼と同様、幼い頃からマラドーナに憧れていたので、マラドーナに憧れていた前園真聖氏のプレーが大好きでしたし、高校時代にドリブルがそこそこ出来るようになった頃には、前園真聖氏のドリブルを意識してペナルティーエリア付近で自分からチャレンジするようになっていました。

 

前園真聖氏と言えば、当時はピンク色のポルシェが有名な話ですよね。あくまでもテレビで本人が話していたことなので実物を見たことはありませんが...この頃のJリーガーたちは、今の選手たちよりも高い給料を貰っていた時代でもあります。

 

私の先輩でもアントラーズやジェフに入団された方がおりますが、当時レギュラーとして出場していなくても、「年俸400~500位はあった」と本人たちから聞いたことがあります。

 

横浜フリューゲルス時代は、海外からのオファーや打診もあったそうですが、横浜フリューゲルスから本人に伝えることは一切なかったそうです。海外でのプレーを熱望していた彼にとって、こうしたことが原因でクラブ側に不信感を抱くようになったとか...

 

海外でのプレー経験はあるの?


当時の川崎ヴェルディが「三浦知良選手」を海外に移籍させた実績があった為、川崎ヴェルディに移籍を決めます。

 

しかし、移籍後は徐々にプレーに精彩を欠くようになっていき、本人も「海外移籍が実現できないことから、精神的な不調がプレー全体に悪影響を及ぼした」と語っています。

 

この時代の天才たちというのは、どうしても「日本のサッカー文化の低さ」により、将来の道や可能性を閉ざされてしまうことが多かったようです。

 

ちなみに、彼は1998年にブラジルで3カ月の期限付き移籍をした経験があり、サントスFCでプレーしたことがあります。

 

しかし実際には、川崎ヴェルディを指揮したネルシーニョ監督が当時サンパウロFCを指揮していたことからサンパウロFCの移籍話が持ち上がりましたが、肝心のネルシーニョが解任となってしまったことで、レオン監督が指揮するサントスFCに期限付き移籍となっています。

 

1999年も期限付き契約の延長をする予定でしたが...サントス側が他の日本人選手を獲得したことを決定したことにより、ゴイアスECというクラブに移籍します。ここではコンスタントに出場していたそうで、ポルトガルやギリシャからのオファーもあったそうです。

 

しかし、ここでも移籍金の問題が浮上し、川崎ヴェルディ側の主張が受け入れられず、交渉が上手くいかなかったとされています。

 

その後、何故か湘南ベルマーレでプレーすることになり、3年後(2001年)に保有権を持つ東京ヴェルディ1969に復帰を果たしますが、ここで彼はサッカー人生最大の危機に陥ります。

 

なんと試合中に足首を骨折をしてしまい、これによってJリーグでの試合が最後となってしまいました。

 

東京ヴェルディを退団した後は、韓国のKリーグに移籍をしています。

 

まず練習に参加した「城南FC」では契約が見送られ、次の「FCソウル」で監督に評価されて契約を実現させます。そして2004年には、新クラブとして発足した「仁川ユナイテッドFC」と契約し、ここで韓国での公式戦初ゴールを決めます。

 

しかし、ここでも左足薬指の骨折を理由に、3ヵ月以上も戦線離脱することとなり、復帰をするものの契約を解除されてしまいます。

 

2005年には、セルビアモンテネグロの1部リーグに所属する「OFKベオグラード」に練習参加をしましたが契約には至らず、ここで引退を表明したとされています。

 

彼の得意としていたドリブルは?


さてそれでは、当時の前園真聖氏が得意としていたドリブルを見ていきましょう。

 

幼い頃からマラドーナに憧れていたので、それなりの期待が持てそうです!

それでは横浜フリューゲルス時代のドリブルをどうぞ。

(この動画は約30秒です。)

 

 

どうでしょうか?

 

ペナルティーエリア内では、マシューズのような技術も見られましたよね。ただし、当時のJリーグと現在とではあまり比較になりませんが...

 

そこで、アトランタ五輪でブラジル代表と対戦した時のドリブルを見てみましょう。

(一部省略していますので約15秒の動画です)

 

 

この試合で、ボールをファーストタッチした後の身体のキレ、ドリブルでディフェンダーをかわす場面などを見てみると、当時のU23ブラジル代表を相手に通用していたのではないでしょうか。

 

でも、やはりオリンピックは23歳以下の大会なわけですから、当時の彼のドリブルが世界トップレベルであるかどうかを検証することはできそうにありません。

 

従って、若い頃(全盛期)に海外移籍経験が実現できなかったことにより、彼の持ち味のドリブルは「日本国内では抜群の存在だった」としか言いようがありません。

 

現役時代の得点を見ると、J1で224試合に出場して43得点。J2では43試合に出場して13得点となっており、1996年の39試合15得点が彼にとって最高の年だったのではないかと思います。

 


 

引退後は何をしている?

 

引退後は、サッカーの解説者として活動をしながら、「ZONOサッカースクール」を立ち上げており、中田英寿氏の結成した「TAKE ACTION FC.」の一員としても活動。

 

2009年には、ビーチサッカーの日本代表としてワールドカップにも出場。

2012年に、JFA 公認S級コーチライセンス取得。

 

しかし2013年には、まだ記憶に新しいと思いますが、酒に酔ってタクシー運転手に暴行を加えた容疑で逮捕されてしまいます...

 

その後、2014年からはフジテレビ系「ワイドナショー」に出演されるようになり、たまに上記の飲酒によるトラブルを出されて笑いを取るといった「いじられキャラ」として定着しつつあります。

 

 

以上、今回は前園真聖氏の若い頃(全盛期)から彼のドリブルを検証してみました。

 

今後も引き続き、「日本サッカー界に突如現れた天才シリーズ」を書いていきたいと思いますので、是非お楽しみにしてください♪

 

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